2026年3月8日・・・常識を超える神の愛渡邊剛志
私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。・・・このように、後の者が先になり、先の者が後になります。マタイ20:14-16(1-16)《譬えが語られた背景》
主は19:16以降の「金持ちの青年」の記事から、御国に入ることは人間の努力ではなく、神によって与えられることを明らかにされました。この事実をはっきりと確認させるために譬えを語られました。なお、この譬えは「最初の者が最後になり、最後の者が最初になる」という言葉(19:30,20:16)に挟まれています。19:27においてペテロは主にすべてを捨てて主に従った自分たちの報いは何か、と問いました。主は、自身と共に御国を治め、犠牲の何倍もの報いと永遠のいのちを受ける、と答えます。これは本来主の恵みによるものです。主は同時に、彼らに釘を刺すように「先の者が後になります」と告げられました。ここで主は何を伝えようとしているのでしょうか。《譬えの内容》
登場するのは、家の主人と労働者たちです。主人はぶどう園で働く人を雇うために朝早く出かけ、労働者たちと1デナリ(1日・・・の賃金)で契約します。その後も主人は、午前9時、正午、午後3時、そして午後5時にも市場へ向かい、仕事のない人を招いてぶどう園に送りました。夕方になると賃金が支払われ、全員1デナリが支払われました。朝早くから働いた者たちは主人に不満をもらします。これに対して主人は自らの正当性を説明します。主人は働きの代価でなく、全て人の必要を満たしたいと考えたのです。ここに主人の愛が明らかにされています。そして、妬みは主人の行動にあるのではなく、自身の心の目にあることを諭しました。《譬えから教えられること》
譬えにおける主人は神様、ぶどう園は御国、労働者は救われる聖徒です。この譬えからわかることは、『御国への招きと救いは人の功績によらず、神の恵みによる』ということです。堕落した人間に対する当然の結果は神の刑罰です。しかし、キリストの十字架の贖いにより、救いの道が備えられました。救いは年齢・能力・国籍に関わらず、ただ神の恵みによるものです。けれども、譬えに登場する主人の気前の良さは一部の者には理不尽であるかのように思われました。同様に人々は福音における無条件で赦す神の愛、常識を超える神の愛が到底理解できなかったのです。そして主は「後の者が先になり、先の者が後になります」と告げられました。「後の者」=期待を超える神の恵みに感謝し謙遜に歩む者、「先の者」=自分の功績を誇って神の報いを受けて当然と考える者です。しかし、救われたことも恵み、仕えることも恵み、様々な働きに労することも全ては神の恵みなのです(1コリ15:10)。