2025年6月29日・・・
無制限に赦されていることを知りましょう (石居義生)イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」マタイ18:22(21-35)
イエスは十字架の死を前にして、兄弟姉妹の取るべき態度として「神に赦された者は何度でも赦さなければならない」と教えます。しかし人を赦す前に、赦されていることを知る大切さを学びましょう。
《第一に、兄弟を赦すことのたとえ》
ペテロがイエスに「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか」と問い、イエスは「七回を七十倍するまで」と、神の寛容さを示します。そして莫大な借金を抱えて清算ができない家来のたとえを話されます。主君は、彼の家族も財産も、すべて売って借金の返済をするよう迫ります。ところが待ってくれと願う家来を見て、主君はかわいそうに思って彼を無条件で赦し、負債を免除してやります。ところが赦された家来は、貸しがある仲間から、借金を強引に取り立てようとし、彼を牢に放り込みました。それを知った主君は「私があわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」と怒り、彼を獄吏たちに引き渡したのです。兄弟を赦せないなら罪に繋がれたままだと教えます。《第二に、キリストの「赦し」をいただきましょう》
キリストは天地万物を創造された父なる神から栄光をいただき、この地上に遣わされた神でありまた人であるお方です。そして「聖なる」「正しい方」で全く罪のない方でした。一方、神に創造された人は「善悪の知識の木からは、食べてはならない」という神の命令に背いてしまいました。その背信のため人に罪が入り、それまでの神との親しい霊的交わりにある神との平安は失われ、「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)とある通り、死に支配されました。あの膨大なの負債を負った男のように、自分自身でこの罪から抜け出すことはできないのです。ところが神のあわれみにより、ひとり子イエス・キリストが私たち人の罪の赦しの犠牲となるために地上に遣わされたのです。聖い傷のないキリストが付けられた十字架は、世界一むごい十字架刑であり、その醜さは私たちの罪の醜さにあるのです。《第三に、人を「赦せる」ようにしていただきましょう》
信仰を持つ者はさばかれずに救われた者ですが、なお罪の性質が残っています。そのため私たちは日・・・々過ちを犯してしまいます。しかし神の前にこころからその罪を悔いるなら、今も無制限に赦していただいているのです。自分は赦されているのに人の罪をこころから赦さない者は罪に繋がれたままなのです。そして神は全ての人を招き、罪を告白するならば、その罪を赦しきよめてくださいます。神が赦した人、また赦そうと思っている人を、私たちがさばいて赦さないことはあり得ません。また自分の罪の醜さを知って、自分を赦せない人もいます。しかし、そんな人のためにもキリストは、父なる神から捨てられる霊的な痛み、苦悩を肉体の苦しみとともに経験され、十字架で血を注ぎ出しご自分をお献げになったのです。この神の恵みの赦しを、キリストの愛に満たされて、人を赦せる者となりたいものです。